昭和57年生まれ。
女性。
兵庫県在住。
息子が一人。
自営業・自由業。
幼少期に祖父を亡くしたことが大きかったのかもしれない。
幼い頃を思い出すとなぜか、枯葉の舞う、人がいない庭で一人遊んでいる自分の姿が浮かぶ。
親は、私のことを「おしゃべりでいつも歌を歌っているか、お話をしているから、
将来はアナウンサーね。」と言っていたようだ。
小学生の時、弟が生死の境をさまよって1か月も入院したことがあった。
少女は学校から帰ると、急いで墓参りにいった。
家にいても誰もいない。みんな病院に行っているから。
少女はおじいちゃんを頼りに、「どうか弟を助けてください。」と手を合わせた。
その少女は成長し、地元では進学校と言われる高校へ行ったが、校則が厳しすぎて反抗した。
といってもかわいいもので、スカートの丈を変えてみるくらいのこと。
まともに受験勉強をせず、ハワイの大学に進学を決めた。
英語が好きだった。海外が好きだった。
2年のハワイ生活は過酷だったが、京都の私立大学に編入を決め、3年次から気楽な日本の大学生になった。
この時代は、大変な就職難だった。
その中で数社の内定があったが、そのうちの一つである地元の優良会社に就職を決めた。
背中を全速力で押したのは両親だった。
やっと帰ってきてくれた、という気持ちだったのだと思う。
一方、彼女は「この会社ははやいうちに辞めて、自分らしい道を見つけよう。」そう心に決めていた。
ただ、どの道なのかは彼女自身も見つけられずにいた。
ただわかっていたのは、「私の人生はここにない」ということだけ。
会社ではそれなりに頑張った。
全く興味の持てない商品を売らないといけない営業マンのつらさを経験した。
上司とはとても良い関係だった。営業車の道中でたくさん話をさせてもらった。
「お前はいつか、お前のお父さんのようになれ。」
そういわれた言葉が、彼女の糧となったことは間違いない。
そして退職。
肩書も役割も何もなくなった今、自分にできることはなにか、そう考えた時。
こんなしょうもない自分に唯一残されていたのは、ヨガであった。
大学の時から1日たりとも休まず練習をしていた。
継続は力なりである。
退職を機会にヨガの資格を取り、自分のクラスを始めることになる。
好きなものにはどんな苦労も惜しいと思わなかった。
興味の持てるものを商品にする。
これがどんなに幸せであるかを知ることができた。
企業から2年、神戸に、指導者を育成するための学校を開校することができた。
次に東京、名古屋と広がり、平成30年には福岡校が開校する。
道のりは簡単に説明できないけれど、地味な毎日にまじめに向かい合ってきたと思う。
周りにはいつも仲間がいる。
そして今は、、
心休める家と家族がある。
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自己紹介
2017年7月23日